『なぜ世界の人々は「日本の心」に惹かれるのか』 呉善花
イザベラ・バードは、蒸し暑い夏場の宿場の休息所で、おかみさんが団扇で何時間も扇ぎつづけてくれるので、チップを渡そうとしたところ、「そんなものをもらうのはとても恥ずかしいことだ」と拒否されたと書いている、明治初期の話
日本陸軍の従軍カメラマンとしてイギリスからきたポンティングは、日本の自然と文化をこよなく愛したが、その中でも、神社の拝殿の軒下にかけられた同鏡に書いている。「これは、参詣者に「汝自身を知れ」と言っているのである、神道のすべての教えが象徴されている、神道には教理や道徳律は一切ない、世俗的な誘惑を避けるように訓戒を垂れることもしない、鏡が無言で説いているのは、鏡に映った自分自身の心をみつめて「清らかかどうか」を確かめることだという。彼は、常に心を清らかに保とうするところに、日本人の信仰心のあり方を感じ取っていた。
韓国や中国には、日本や西欧いような、武人統治下に成熟した封建制社会の歴史がない。そのため、倫理や道徳の基本は儒教的制度であり、その担い手は王朝国家の文人高級官僚であった。武人は地位が低く武人の中から独自の倫理観、道徳観が育つことはなかった。
日本は、武人に発した武士道が、制度ではなく「生き方」の道として江戸時代には、一般町民階層にまでおおきな影響を及ぼした
万物は「誕生し衰え死を迎え再び誕生する」永遠に生生流転(せいせいるてん)する大きな流れの中にあるという自然理念。そこに、常住不変ではないとする仏教的な無常観、その二つが結びついた。
衰えて陰りを持った生命、あるいは誕生前の未熟な生命に対して深い愛情を感じ、それを美しいと思う心、美意識は、そのまま「もののあわれ」の情緒に通じる。
常に生死の循環のうちにある動的な生命である。その動きに自分と同じ宿命(さだめ)をもった魂の所在を感じ感動する
中世以降は、死と隣り合わせに生きる武士に重ねられて「花は桜木、人は武士」と、その散る姿の清らかさが讃えられた。ちりぎわが、いさぎよくあってこそ美しいというのは日本人の特有な感性だと思う。
お茶を飲む習慣は、東洋、中東、ヨーロッパにもあった、しかし、「審美的な宗教」とまで言われる領域に入ったのは日本だけ、審美の対象は、天心がいうように
「純粋、完全なもの」ではなく「不完全なもの」である。それはつまり、どうにもコントロールしようのない人生というものの中に、「何か可能なものを成就しようとする優しい試み」なのである。
「草木成仏論」は、植物にも精神性があり仏になれるという。
それが日本に伝えられると、「草木」はもちろん、「国土」も「山川」も、つまり、無機物を含めた一切の自然物が仏性を持つという考え方になる、日本仏教の独自性が現れている